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2006/09/22

喜ぶ・祈る・感謝するから、親子関係の気付き

うっでぃのPCは、持ち主と同じで?やはり瞬間的な回復でして・・・^^;

また、引きこもっております。

と言うわけで、年寄りPCで頑張っていましたが、

記事は書けますが、投稿が上手く行かず、

何日もかかったりしてました。

知恵を絞った?ぴーまん&うっでぃ。

PCメールで投稿してます。(そこまでするかよ・・・^^;はい。)

さて、今日は、先日、実家に行っている時に、ふと、思った事です。

(ぴーまんが勝手に思っていることで、、、 どこかのテキスト?とかとは、大外れ〜!な事を言っているかもしれません^^;あしからず。)

最近、ぴーまん的クリスチャン話?が続いていて、キリスト教と無関係な方、申し訳ありません。

でも、「へ〜。ぴーまんには、こんな側面もあるんやね〜!」と、読んで頂けたら幸いです。

【いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。
すべてのことについて感謝しなさい。第一テサロニケ 5・16−18】

という、聖句があります。

私の幼稚園の園訓は【いつもよろこぶべし】でした。

なので、3歳の頃から、この言葉は私と共にありました。

【これが、キリストイエスにあって、神があなたがたに求められている】

と、聖句には続きがあります。

私自身がASだからでしょうか?よくわかりませんが、私的に、これらの御言葉が、「MUST」でなかった。とは、言い切れません。

なんとなく、日本語で、「〜しなさい。」とか、「べし。」で終わっていたので、私は、「MUST」と解釈していた部分があります。

いや、勿論、そんな事が出来なくても、全く飾らない野の花を愛するが様に、私自身を愛して下さる神様の存在も知っています。多くの自らの罪の中で、その愛を体感して生かせれてきました。

でも、頭から、「MUST」を、切り離せない部分が、正直、あったのです。
30年間も・・・^^;

それがですね〜。

実家に帰った時に、この春、4つ目の大学を卒業して、医師国家試験の為に勉強していた37歳の兄(いつまで学生?と、突っ込まないで下さいね・・・^^;)の部屋を、寝床に使わせて頂いていたのですが、そこには、勉強していた状態がそのまま残っていて。

机、パソコン、テキスト、問題集、オーディオ・・・そのまま^^;

まるで、「君、まだ、住んでるんちゃいますか〜?」って、状態。

神学部を出て牧師にならずに、周囲からは、どこか「変人」扱いされていた彼の、また、その年齢になり、一生懸命勉強していた、なんちゅうか、他者には理解できない苦労が感じられて(涙)

ふと、床に横になってみたくなり、
【彼が毎晩見つめていたであろう天井】を、見てみたのです。

そしたら、いろいろな聖句が、
ば〜〜〜〜っ!て、沸き上がってきて。

そして、先ほどの、テサロニケの聖句に、疑問を覚えたのです。

正しくは、

聖句の【順番?】などに。

① 元々の聖書には、なんて書かれてるのかな〜?
② べしは=「MUST」、じゃ無いなぁ〜 (^〜^)

とか、ボロボロ浮かび上がってきます。

私たちは、現実の世界で、「なんで?」の怒り・悲しみ・絶望・・・に出会っても、そのこと=怒りなど、を、隠さず、そこにある【神様の御心】を求めつつ、【いつも正直】に、

「神様、このどうしようもない私には、貴方のされようとしている事が理解できません。どうぞ、この、どうしようもない僕に教えて下さい。私は、貴方がなさろうとしている事の、単なる道具に過ぎません。ですが、神さま、私は、この状況が辛いです。耐えられないです。どうぞ、貴方の御手を持って、この私を助けて下さい。」
と、

①【常に祈りつづけるならば】

主は、答えて下さる(=祈りはすでに叶えられている。という聖句から)

それ=祈り、は、父である「神との対話」であり、(もちろん、祈る=こちらの話だけを聞いて頂くのではなく、聖書から御言葉=神様の言葉を毎日聞かなければならない、と思います。それで、対話)それにより、多くの気付きと、悔い改めを頂き、その事により、

②【心からあらゆる事柄に感謝することが出来る】に至る。

そして、際目付けは、

③【いつも喜ぶ事が出来る】のではないか?と。

もちろん、命を与えられた事、とか、罪人である自分の為に、十字架にお架かりになったキリスト、その存在そのものへの、「喜び、祈り、感謝」はありますが、なんせ、弱い私。

普段の生活の中での、ちょっとした事で、すぐに凹み、ムカツキ、いらつき・・・

だから、毎日、(強制的にでも)祈りの時間と聖書の時間をとらなければ、私は、この世の中でやっていけません^^;

それらの繰り返しが、希望に繋がり、どんな苦難もを乗り越えていける、そんな信仰に少しずつでも変えて頂ける、そう思う、それを体感したのです。

【正直な対話】これは、信頼関係が無ければ成立しないものであるという事を、この土地に越してきて初めて体得したものです。

【正直】という言葉の捉え方を、間違って欲しくないのですが、何でもかんでも思う侭に語ればいいと言う事ではないです。むしろ、そこに、愛を持って、互いに良い関係を作り上げる事を目標・目的とした、その背景があっての【正直】です。

そして、これは、お互いがそれを望んでいなければ、話にならない、対話にならない、という事も、多くの事例を通して学ばせて頂きました。

さて、神様との祈りのスタイルについて、ある宣教師の先生(この方との出会いにより、うっでぃはクリスチャンになりました)がおっしゃっていたことが忘れられません。

「神さまは、偉大な方であるけれども、父としての神様である訳だから、私たちが普段、『ねえ、お父さん!あのさ〜。』と、普通に話しかけるように話していったらいいんだよ。それは、歩いている時でも、TVを観てる時でも、お風呂に入っている時でも、何をしてる時でもいいんだよ。だって私たちは、何かをしながら、お父さんと話をするでしょ?そう、どんな時でもいいから、話したくなったら、話したらいいんだよ!それが、祈りだよ。そして、神さまは、ザンゲの様なかしこまった祈りを求めているのではなく、そんな、身近な子供からの祈りをきっと求めているよ!」と。

確かに、この方法を使うと、祈りの時間が増える。どんな時でも祈れる。

そして、実際に、その事を言っている讃美歌もある。(ここで紹介すると、更に長くなるのでまた今度。)

で、最後に思った事は。

っていうか、人間の親子にも『正直な対話』が、
それこそ『MUST』なんちゃうん?ってこと。

私たち親は、偉大な神様の様には聴いてあげれないかもしれないけど、でも、聴いてやらないとね。子供の話。

それは、【子供が言ってる通りにする】って事とは違うくて、子供の話に、【真剣に、誠意を持って、答えてあげる】って事かな?で、それは、【常には無理】だから。

でも、子供が訴えて来た時に、こちらが、「ちょっと待って。」をしたとして
も、そこで子供が、「うん、待ってるよ。お母さんは、いつか【ちゃんと聴いてくれるから。】」と、親子の信頼関係があって、初めてお互いに【いい状態で対話出来る】んとちゃうかな?

なにも、親は召し使いじゃないんやし、親だって感情を持った一人の人格やし。親だってくたびれるし。

常に子供の話を聴いてあげていて、何らかの都合で、ふと、聴けなくなった時、聴いてあげれなくなった時、聴いてもらえない子供は、どないするんや?

その時が、一番ヤバイんちゃうの?とか、思う事もあったりする^^;

親子の依存は必要だけど、私ら親は、神様じゃないし、いつまでも、常に一緒に、子供といれるわけじゃない。その【(共)依存関係の見直し】は、常に、こちらがしていかなければならない事だと思う。

そんでもって、子供が実際求めてる親像も、違うんじゃなかろうか?
すぐに聴いてくれるロボットが欲しいんやろうか?
なんちゅうか・・・それは、空しい関係やわ・・・^^;と、思うわけで。

それを続けていたら、絶対、いつか、なんか、問題が起こるわ。
あっ、因みに、逆もあるらしい・・・^^;

また、事例で挙げて申し訳ないが・・・^^;
うっでぃは、先日初めて、「おれはロボットじゃない!」と、家族に宣言していた^^;

親や、周囲がそうしたつもりじゃなくても、
【子供がロボットとして育たなければならなかった事情】も、子供には、子供なりにある、ってこと。

大事なのは、その事を子供が正直に言ってくれた時に、さて、何故にそうなったんかな〜?と、共に振り返り、共にそれを繰り返さないが為に、どうしていけばいいか?

を、共に苦しみながら過去を考察する事だと思う。

親子であっても、『お互い一人の人間なんだ』ってこと、私は大事にしたい。そこを大事にした上で、お互いに、「ね〜ぇ、あのさ〜」って、喜怒哀楽を、互いに正直に言える関係。

いつまでも、子供達とそれを大事にしていきたいな、と。
そのことにより、親子の間でも、自然に、

【共に喜び、共に泣き】

その事から、
【互いの存在に感謝し、互いに祈りあう。】が、成立するんだと思う。

先日、のびたくんに、(私は反省ばかりで、泣きながら)
「いつも私の都合で、あなたを振り回してごめんなさい。(再婚やら引越しや
ら、、、) あなたは私に愛されていますか?愛されているという、実感はありますか?」と、尋ねてみた。

すると、「うん、愛されてるよ。僕は愛されています。ママは、いつでも正直なママを見せてくれる。いつでも、正直にぶつかって来てくれる。いつでもしっかりと叱ってくれる。ママは僕から逃げないでくれるから。だから、僕は愛されていると感じるよ。」と、言ってくれた。

そんなクリスチャンの息子と、また、うっでぃと、『キリストにある兄弟』として、これからも、神に喜ばれる者となる事を目指しつつ、【共に祈り・感謝し・喜ぶの循環生活】を楽しみながら、また、2人の娘達にも、【その最高の財産】を継承出来る様、生活していきたいと思いました。

3歳の頃から聴いていた御言葉から、こんな気付きを頂いたぴーまんでした。

☆最高の財産に感謝です☆

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